ゆかりのある人物と歴史 2


犬山焼 赤絵 犬山城 鵜飼 尾関作十郎陶房
赤絵 犬山城 鵜飼

赤絵師道平

(あかえしどうへい)

犬山焼の赤絵といえば、直ちに道平を思い浮かべるほど犬山焼陶器史の上では忘れる事の出来ない人物であるが、その人となりについては全く知られていない。

天保初年、春日井群上志段味村から招かれて丸山窯復興に参画した松原惣兵衛と親交があり、名古屋伝馬町の筆商の紹介で天保6年(1835)犬山に招かれた道平。

道平は加藤清蔵・松原惣兵衛の丸山窯に加わってその画才を大いに奮った。

本名を逸兵衛といい、号を道平と称したらしい。 

 


木瓜型 赤絵絵鉢 作: 松原惣兵衛  絵: 道平
犬山焼 内側 瓔珞紋 外側 花鳥赤絵

 

どこでどのようにして陶画を習得したのかも詳らかではないが、その筆風は奔放自在で、明代呉州赤絵の真髄を写し得て妙であり京都の奥田頴川と並び称される名手であった。

惣兵衛とともに呉州赤絵を写し、城主の好みにより春秋に因んで桜と紅葉の雲錦模様を絵付け、また犬山八景を酒器などに描いたのも道平が最初であった。

作品は数多く残されいるが、款・銘のあるものはほとんど無い。惣兵衛が寺杜へ奉納した清蔵・惣兵衛との合作品にわずかに道平の銘を見るに過ぎない。

 


犬山焼 内側 瓔珞紋 外側 花鳥赤絵
木瓜型 赤絵絵鉢 作: 松原惣兵衛 絵: 道平

兼松所(初)助

(かねまつしょすけ)

犬山では文化年間(1804~1818)頃から京の伏見人形を模した土人形作りが始められた。大正の中ごろまで新町・鍛治屋町あたりに一、二軒土人形屋が残っていた。

兼松所助は犬山坂下材木町に住む土人形師で人形細工の原型作りをしていたようである。

また丸山窯が、成瀬正壽の援助と加藤清蔵・松原惣兵衛等の努力と相まってようやく軌道に乗り、天宝年間には惣兵衛の赤絵付に名工道平も加わって隆盛に向かい、さらに拈り細工の巧者な所助の参加を求めた。

 


犬山焼 尾関作十郎陶房
魁字入り赤絵鉢 松原惣兵衛

 

天保10年(1840)に、継鹿尾山寂光院へ寄進した仁王像の香炉には細工人所助・窯方清蔵吉平(惣兵衛)、赤画師逸兵衛(道平)の書銘があり、天保12年、惣兵衛が寺内町の万蔵院へ奉納した狛犬一対には兼松所助作の銘がヘラ彫りされている。小形ながらその優れた力量を示す傑作である。このように所助の拈り細工を必要とする仕事も多かったと考えられる。

また所助は花鳥画を得意とし、このころから陶画にも意欲を燃やして道平・惣兵衛とはやや趣を異にする独特の赤絵付を試みた。嘉永4年(1852)から犬山焼に参加し、近藤二村とともに画風を論究してそれぞれに特色のある多くの作品を残している。とくに所助は赤と緑の他にこれまであまり用いられなかった若竹色を配して犬山赤絵に新境地を開いた。

 


犬山市内 史跡
犬山市内 史跡

近藤清九朗

(こんどうせいくろう)

天保元年(1830)10月誕生。名を清右衛門、その後太米治、廃藩後は秀胤と言った。

愛知郡沓掛村の在であった父が城下の犬山にきたのは、天保14年(1843)、村内に二村山あったので号を二村と称した。

嘉永四年(1851)5月11日、犬山城内東谷に住み、寺島華渓に画を学び、狩野派に精通した。御目見え以下の同心には、勤務の余暇に内職が許されていたので、加藤清蔵の職場に赴き、天性の画才を生かして陶画を試みるようになった。廃藩後は尾関窯にあって、陶画の研究に没頭し、赤絵染付の他、交趾も写した。

明治11年(1878)、京都・大阪両府県勧業博覧会に県より視察を命じられた二代作十郎は秀胤を伴って同地に滞在つぶさに見学した。秀胤が先行地の陶器出品物を克明に模写して、これに彩色を施した肉筆図とこれらの資料を参考にして作られた作品も残されている。画風は道平の豪快さに比べ優雅緻密であり、特に赤絵の線描きの美しさは、他の追随を許さない。

 


犬山焼 赤絵 徳利 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 徳利

奥村伝三朗

(おくむらでんざぶろう)

今井の奥村家の系図をたどると、久々利城主・久々利頼興の家老を務めた奥村元広(大森郷・八百石)の次男で、永禄年間に今井村に遁世して志津入道と号した奥村藤蔵元清がその初代である。奥村伝三郎正清は五代目に当たる奥村利右衛門の次男として生まれた。

伝三郎の生年は詳らかではないが今井では格式の高い家柄であったらしく、延宝年間から享保年間までの53年の長期にわたって村の庄屋を勤めたといわれている。

元禄年間、可児地方から移住した美濃焼の陶工を受け入れて氏神石作神社の東に当たる宮ヶ洞に開窯し自ら窯主となった。主として日用品の雑器を焼いたが、今井付近は成瀬家の鷹狩場でもあって当主も折にふれて窯場に臨んで見学した。

瀬戸黒・青織部・黄瀬戸・灰釉等の美しい釉調と姿を持った水差・茶碗・茶入・壺などの作品が現存、これらの器底に[犬山] 等の窯印がある。

俚言に、「今井は亡ぶとも、伝三は倒れぬ」と言われたほど、今井窯は一時盛大を誇った。二代目源助・三代目太右衛門と続いたが、家運は衰退して安永十年(1782)太右衛門の没するとともに窯も廃絶した。

 


犬山焼 抹茶茶碗 尾関作十郎陶房
犬山焼 抹茶茶碗

大島太兵衛

(おおしまたへい)

屋号を綿屋、名を暉意、通称太兵衛と言い、一宮北郊東大海道より大島家の養子として来た人物である。

犬山焼丸山窯の源流である島屋惣九朗が文化7年(1810)に丸山に窯場を設けた後、文化14年3月この陶器株を同じ上本町に住む綿屋太兵衛が願い出てこの窯を譲り受け、京都粟田からろくろ職人を雇い入れお庭焼の振興に努めた。創業時代の苦労が当時の町奉行所にあてた嘆願書に残されている。苦難の犬山焼の維持発展に成瀬正壽の援助のみならず、太兵衛の功績は大きいといわねばならない。つまり、天保2年(1831)、加藤清蔵・松原惣兵衛、引き続いて道平等が犬山焼に新風を吹き込むまでの約15年のことである。これも綿屋太兵衛の犬山商人として幅広い交際と根性で資金面のみならず、多くの町民の信頼を得て経済的・行政的手腕をふるったためといえよう。

三代目大島太兵衛は寛政9年 (1797)頃の生まれで弘化3年(1846)2月2日 50歳で死去した。

 


犬山焼 雲錦手 飯碗 尾関作十郎陶房
犬山焼 雲錦手 飯碗